この前の感覚は何だったんだ。
住まいに帰り着いたあと、改めて異常がないか確認した。特に増えも減りもしておらず、念のため医者にも診てもらった。それでも何の問題もなく健康だという。
ただ頭で感じた快感や体が落ちるような感覚、抱きしめられたときの深い安心も、まだ全身に張り付いているようだった。
これからも、あれを続けるのか。そもそも、やり方は正しいのか。本当に友とするようなことなのか。
でも俺が相手をしなくなったら、あいつはまた床に臥すのかもしれない。
そうしたら、俺じゃない誰かに同じような『躾』をするのか。俺じゃなくても、よくなったら?
拳をぐっと握り込む。
信じている神などいないが、祈るように額に手を添えて目を閉じる。
死線なら何度もくぐってきた。
大切な者を健やかに保つための行為なら、恐れることなど何もない。
王都の季節はすっかり春に塗り替えられた。
大通りの木には白い花が咲いている。
吹き抜ける風が紳士の帽子を飛ばし、淑女のドレスの裾を巻き上げていく。
二週に一度だった秘密の《指令》も今や週に二度ほどになった。おかげで部屋番ともすっかり顔馴染みになっている。
廊下の角を曲がったあたりで手を挙げて挨拶を済ませ、扉の前で今さら何の用か問われることもなく軽口を叩き合う。
「おや閣下、今日もお散歩っすか」
「そんなところだな。小型犬なのに暴れん坊で」
小さな犬を抱えて取り押さえるような動きをしてみせる。
「不敬だね、犬はあんたでしょうが。はい、どうぞ」
歯を見せて笑いながら案内される。面倒な手続きを飛ばせるのだから安いものだが、毎度の皮肉はたまったものではない。
「……どうも!」
「ストロール!」
小突き合いを聞きつけたのか、部屋に踏み込んだ途端に薄水色の毛玉が胸にぴょんと飛び込んでくる。
「やっぱり犬だ」
「ん? ストロールが?」
小さな犬は俺の胸板へ鼻を埋めて背に腕を回しながら、んー、と意味のない音を発していた。
「それな、さっき部屋番にも言われたんだが」
「でも野良犬じゃないよ。自分のだから」
「うーん、そうだな」
ここ来る時間を作るために、どれほどの速さで仕事を片付けてきたのかわかっているのか。
「あげる」
思い出したように、ポケットからきらりと輝くものを取り出した。銀色の本体に黄色の宝石が嵌っている。
「腕輪?」
「そう、夏のお返し。遅くなってごめん」
「犬の話をした後に輪って」
「やだな! 犬には脚しかないだろ」
曖昧に笑いながら、俺の腕にするりと通す。盗み見た顔は、いつか大聖堂の前で見せた無邪気な表情よりいくらか大人びていた。
「はい、ストロール。《お手》」
楽しそうに微笑む主君へ、銀の輪が着けられた手を差し出す。掌が触れ合うと、代えがたい安堵に背を包まれる。
「《座って》。はい、おやつ」
敷物に座し、口を開けて待つ。
干した肉の切れ端を含まされる。噛みながら、大聖堂前の市場に美味そうな出店があったことを思い出す。飲み込んで王を見れば、すぐさま次の指令が下された。
そう、治療が先だ。
伝えるのは、また今度にすればいい。
《お手》から始まる時間にもすっかり慣れたもので、気づけば敷物の上に座らされている。
「《目を閉じて》」
お手をしたまま、言われたとおり何も見えないようにした。手元に冷たいものが触れて、ぱちりと硬い音がする。
「《よし》」
目を開くと、腕輪には銀の鎖が付いていた。俺の首飾りのものよりわずかに太く、引っ張っても千切れそうにない。
「何のつもりだ?」
「似合うかなと思って。《良い子》だね」
にっこりと笑う。耳に溶けていく褒美のことばが、頭の中をぐるぐると回っていた。
珍しく機嫌の悪い日があった。
部屋を訪ねたときから落ち着きがない。椅子の上で体を前後に揺らして、喉元を人差し指で掻いている。
「どうした? 何か嫌なことでも」
「《黙って》《部屋の隅に居て》《待て》」
敷物の上ですらない、遠い角を投げやりに指された。苛立った様子で、こちらには目もくれず何かを急いで書き付けている。
「なあ、言ってくれないと」
ばん! と両手で机を叩き、こちらを強く睨みつける。どっと脂汗が吹き出て、振り返りもせずよろよろと部屋の角へ歩くことしかできなかった。
向かった先には椅子も敷物もなく、腰を下ろす許可も出ていない。目の前にある本棚の側面を見て、色の変わる境を数える。節のかたちを頭の中で何かに例えたりする。床の継ぎを目で追って、腰のあたりにある小さな台の曲線をなぞる。
そんな調子で部屋中ぜんぶを見回しても、王はひたすらにペンを走らせていた。
雨が窓を叩きつける音がする。王宮の奥にある私室に降り込むはずもないが、床がじっとりと湿って足に水が染み込んでいくような気がした。
緊張が続き、半分眠っていたのかもしれない。
ふと気づくと、書き物机にかじりついていた彼はソファに移動していた。
誰を呼びつけた様子もなく、手ずから茶を淹れて飲んでいるようだった。
卓の上の茶器はひとつしかない。
「俺の分は」
「《待て》」
こちらを見もせずに、刺々しい調子で釘を刺される。仕方なしに、硝子のポットで踊る茶葉を見ていた。値がつけ難いであろう工芸品を、流れるような所作で扱う。
そっと置き、今やっと俺の視線に気づいたかのように手をひらひらと振る。
「《よし》《おいで》」
王のくつろぐソファの横で歩みを止めた。まだ、座ってはいけない。
「《座って》」
「床か?」
「隣」
くすくすと笑う暴君の横へ、どかっと腰掛ける。
「《良い子》だね」
よしよしと頭を撫で回し、熱そうな茶の入った飲み差しのカップをよこされる。頻繁に招かれているとはいえ国王陛下専用のものに口を付けるのは流石にためらわれて、顔を覗き込む。
「いいよ。あげる」
「何を?」
「全部」
何を言っているんだ?
「いや、だから」
王の言う全部、がこの部屋のどこまでにあたるのか理解できず、声が大きくなる。
こいつがここまで要領の得ないことを話すのは見たことがない。
「中身も、茶器もあげる。今日は特別頑張ったから」
「献上品だろ? こんな手の込んだもの」
「欲しそうに見てた」
ね? と渡されたカップから茶を飲む。澄んだ赤茶の液からは燻したような独特の香りがした。
あからさまに様子がおかしかったのはその日だけで、後は何もなかったように穏やかだった。
他愛のない話から始まって、敷物の上で靴を脱いで転がり、鎖を引かれて弄ばれる。それが常だ。
揃えられた靴を履き、着崩れた服を整え、上着を羽織って扉へ向かう。
「じゃあ」
「待って! 大聖堂前の串焼き」
机で書き物を始めていた王が駆け寄ってくる。
「ああ、買ってくればいいのか」
「今度一緒に食べに行こう。おかげさまで元気だからね」
無邪気な弟の顔で俺の小指をすくい取り、絡めて振る。短くまじないの言葉を切ったあと、離されて空いた手で艶めく薄水色の髪の毛を撫でてやる。
「楽しみにしてる」
二人でがっくりと肩を落とす。
串焼きの店は跡形も無く、空いた区画に水たまりができていた。近隣の店主に経緯を尋ねると、開業資金が貯まったので海都で店を構えるらしい。
「鎧戦車で行く?」
「今行ったところで店はできてないだろ」
「ストロールの、けち将軍!」
王は口を尖らせて拗ねている。歪んだ唇のかたちは、剣よりも鋭く見える。そんな態度が取れるくらいに元気になったのはいいが、けちと言われる筋合いは断じてない。
隣の店で袋入りの飴を買って、わがままな陛下に一粒ひょいと放る。ぱくりと器用に口で受け止めてころころと転がす。
「薄荷の味がする」
「もっと甘いほうが良かったか?」
「これも美味しいから大丈夫」
市場をあとにして、王宮へと歩く。子供たちが友と一時の別れを惜しんでいる。街灯が明るくなりはじめる時間だった。
「店、行けるといいな」
「行こうよ。おごって」
手が床に当たって目が覚める。
倒れたときに敷物からはみ出てしまっていたらしい。指にこつん、と冷えた感触があった。腕輪についた鎖が俺の手を引きずり、柔らかな敷物の上におさめる。
「ぁ……」
「起きた? ずいぶん気持ちよさそうだったけど」
起きて、いる。気持ちいい?
ぶれる視界をどうにか抑えて、声のする方を目で追う。腰から上を抱き起こされて、仔羊のように抱え込まれた。母の腕に抱かれていた、幼い日のことを思い出す。
ことばを忘れたままにくったりと身を預けていると、王の顔が近づいてきた。目が合う前に視界が暗くなったり、唇に当たる感触で口付けられたのだと気づく。重いまぶたを必死に持ち上げ、目線を友に向けて問う。
「どした?」
「して欲しそうに見えたから」
本当に何の気なく言ってのける。ああ、なんだ。この頭のふわふわが、幻を見せているだけか。ふ、と息を吐くことしかできなかった。また唇が当たる。口を塞がれて、声が声にならない。
抵抗しようと顔を背けても押し戻され、より深く舌を差し込んできた。肉の味に混ざって、薄荷の涼やかな香りがする。王の体を掴んで離そうと持ち上げた手は、腕輪の鎖に阻まれて簡単に床に落とされた。
「目、覚めたかな」
視界には星が飛んでいる。何を言っているかは聞こえる。わかる。強く目を閉じて首を振り、腕から逃れようともがく。
「ちがう」
「うん、違う。恋人じゃない。わかってる」
王は淡々と答えながらあっさりと引き戻し、また甘やかすように俺を抱え込む。穏やかな声に反して、強い力で下唇に爪を立ててきた。薄い皮膚がぷつんと破れて、血が垂れていく。
「でもさ、ストロール。君は誰のものなのかわかってる?」
「俺は、俺自身の……」
玩具に飽きた子供のようにぱっと手を離して立ち上がる。
「《伏せ》」
「……ッ」
鈍い音を立てて体が敷物に叩きつけられる。
「君は、誰のもの?」
「俺は、俺自身のものだ!」
ふーん、と興味などなさそうな気の抜けた声が聞こえた。すぐにでも起き上がって力いっぱい殴ってやりたかった。それなのに体は言うことを聞かず、縫い付けられたように伏せている。
「それ、本当?」
「ああ」
犬には脚しかない。俺には両手がある。
敷物の毛に爪を立てて、指でぎゅうっと握り込む。
「僕のじゃなくて……?」
「そうだよ!」
あらん限りの力で叫んだ、つもりだった。
実際に出た声は言ったとおりに伝わっているか疑わしいほど、か細かった。
睨みつけるものの、天井の照明を背負った奴の表情は窺えない。
「《四つん這い》で《待て》」
何かを取りに机のほうへ歩いて行った王から、追加の指令が下される。
抗えず言われた通りの姿勢を取った俺の背に、戻ってきた彼が腰掛ける。
どん、と鈍い音がしたが、軽いものだと思った。
俺より頭一つぶん背が低くて、片手の剣術と魔術に特化した体だ。ならば耐え切れる。
「退屈だろうから、これ見てていいよ」
とん、と俺の目の前に硝子の置物を置いた。
上側には薄水色の砂が詰まっており、真ん中の細いくびれを通ってさらさらと落ちていく。まだ下側の底には敷物の麦色が透けて見えた。
砂とともに汗が垂れ落ちていく。
柔らかな敷物の毛も潰れきって、だんだんと膝に痛みが沁みてくる。
声をかけられることもなく、上に乗る体が時々草のように揺れたり俺の髪をいたずらに掻き回す。
「ねえ、わかった?」
小さな王様は、俺の首筋をぴしゃりと叩いて短く問う。
「何を」
「即位しても友達でいてくれるって」
「言ったな」
大聖堂の前で、不安そうな顔をしていた。
「躾も一緒にやるって」
「お前の体調が心配だった」
大事を成したあと、休息が必要だったんだろう。
ただのままごとだった。
それで良くなるなら、かわいい弟に付き合ってやろうと思った。
「青い腕輪をくれたのは、どうして」
「お前が大切だから」
夏の海洋都市で買った深い青色は、あの時のお前に似ていた。お返しだと貰った腕輪はいつでも身に着けている。
椅子のように腰掛けられても、腕輪に鎖が繋がれても、答えは変わらない。
どれも俺が選んだことだ。離れたくなかっただけで、そうした。
「ストロール。わかって」
掌がのたのたと背を這う。
切なげに乞う言葉の中に、頭の奥から従わずにはおれないような震えは感じない。だから、わかれない。
頷くことも、首を振ることもできなかった。
「《よし》」
突然の解放に王もろともぐしゃりと崩れる。
硝子の置物は横倒しになって、砂が半分ずつになっていた。
今はもう、どちらが上だったか分からない。
「《腹を見せて》《寝転んで》」
潰れた体は言葉を理解する前に、望まれた姿勢を整えていく。
意に添えるよろこびが痺れた指先まで広がる。
頬に熱が走って、鼻から息が漏れる。
「《こっちを見て》。言い方を変えるね」
満ち足りた顔で、美しい男が笑う。
敷物に寝転ぶ俺の隣に座る。ここに足をつけるのを見るのは初めてだった。
「好きにしても良い?」
駄目だ。
どんなにねだられたとしても、渡すわけにはいかない。
薄水色の子どもはわざとらしく首を傾げて上唇だけを突き出し、拗ねたような顔をしていた。
「全部《出して》」
ちゃり、と腕輪に結ばれた鎖が引かれて鳴る。
振動が肌に伝わり、頭の中で何重にも響く。
差し出せと言われているものが何を指すのか、わからない。
どこまで求められているのかも、知らされていない。ただ、我が君に望まれていることだけはわかる。
「できるかな?」
慈悲に満ちたあたたかい笑顔で問う。
頭から足の先まで確認するように視線を送ってくる。
目に宿るダイヤモンドの輝きが、俺の安い見栄でできた壁をがらがらと打ち壊していく。
ひと通り見終えたあと、薄い唇がふたたび開かれようとするのを見た。
その瞬間、喉がひゅ、と音を鳴らす。
ああ、俺がこうなるように選んだのか。
目を逸らせないままに、小さく声を織った。
「──はい」
短い返事を伝え終える前に、仰向けの腹をそっと撫でられる。
服が捲れてあらわになった肌を指が掠めたとき、下着の中がべたついて染みが浮き上がった。
怒りや悲しみはなく、ただ当たり前のことだと思った。
「大丈夫。あとで綺麗にしよう」
触って良いと言った覚えのない角を、親指ですりすりと撫でられる。
抵抗しない俺に気を良くしたのか、またぎゅうっと抱えられる。大事な宝物のように。
王がゆらゆらと揺れて、子守唄を歌う。
俺は赤子でも人形でもないのに、そんなことでどうしようもなく満たされていく。
胸の底がじゅくじゅくする。鼓動が速くなって、脈打つ音が全身に響く。指先が震えて、気が遠くなる。
自分でも気付かないうちに、血の色が変わってしまったんじゃないか。
なあ、俺はまだ、俺のかたちをしている?
頭を動かして様子を伺えば、楽しそうな主君と目が合う。長いまつげが二度上下し、ゆったりとした歌が止む。さっき唇を裂いた指が、俺の髪をそっと撫でる。
ああ、大丈夫だ。
きっとこの後、世界中で誰よりも優しく微笑んで、俺のいちばん欲しい言葉をくれる。
「ストロール、《良い子》だね」
