*主ストどちらもオメガではない/END後/愛し合っているけどずっと苦しい二人の話/執着と共依存強め
本文を読む(R18)
「お疲れ様です!」
「ああ、お疲れ」
一日の訓練で疲れ切った心身を振り絞り、上官に挨拶をする。新しく将軍の座に就いた銀髪の青年は少し風変わりで、用具の手入れや稽古場の清掃にも参加し、更衣室も俺達と共同のものを使っている。横目で見た彼の首筋は、赤色に腫れているようだった。
「怪我、お大事になさってくださいね」
「ああ……ありがとう、じゃあ」
閣下はやわらかく微笑んで用具を片付け、優雅に部屋から去っていく。
「馬鹿!」
ぼんやりしながら着替えていたら、先に更衣室にいたらしい同僚が怒鳴りつけてくる。
「えっ⁉︎ 俺何かした?」
「噛み跡じゃないのか、あれ」
あの清潔を通り越して潔癖な閣下が?
「そんなわけないって!」
見られた!
がちゃがちゃと鳴る装備を押さえながら廊下を突き進む。今は誰とも目を合わせたくない。下を向いたまま、走っていないと言い訳できる最大限の速さで歩く。角をいくつも曲がって階段を飛ばしながら登り、出入りを許されている王の寝室に駆け込む。
部屋の主はまだ執務中なのか、戻った様子はない。安心するための巣を作りたくても衣装室には鍵がかかっているし、寝所のリネンはいつだって清潔に洗われている。探し回ってようやく見つけた物書き机のひざ掛けをソファに連れ込み、倒れ込む。横になった途端に張り詰めていた緊張の糸がふつりと切れたようで、力が抜けて視界が暗くなった。
重たいまぶたを持ち上げて、ゆっくり目を開く。さっきよりも空気は少し冷えて、沈んでいる。ああ、眠っていたのか。
「ストロール?」
まばたきをして起き抜けの体を明かりに慣らしていると、部屋の主がこちらに歩いてきて俺の名を呼ぶ。ぼやけた視界では距離が測りきれなくて、手を伸ばしても彼に届かない。数秒して王に指先を取られて、ようやく距離感を取り戻した。
「寝るならベッド使ってよかったのに」
顔が、近い。欲しかった香りがする。
「……しないか?」
「疲れてるでしょ? また今度ね」
子供をあやすような声で欲を丸め込まれた。実際に主を差し置いて惰眠を貪っていたのだから、言い訳のしようもない。大人しく天蓋をくぐって体をシーツに転がせば、柔らかな寝床に身が沈んでいく。王が俺に上掛けをかぶせて、微笑みながら声をかける。
「歌おうか。ジュナほど上手じゃないけど」
「遠慮しておく。眠れなくなりそうだ」
「じゃあ撫でてあげるね」
薄手の掛け布を肩まで巻き込んで背を向けた。ベッドの中で俺以外の名前を呼んでほしくはないのに。頭を撫でる手は優しい。指の通ったあとが熱くなり、呼吸が乱れないように耐える。しばらくそうやって撫で続けて、いきなり王の指が俺の首の噛み跡にとん、と当たった。
「ァ……!」
不意の接触にびくりと体が跳ねる。後ろをそおっと振り返ってみると、王はもう夢の中にいるようだった。
しばらくは眠ろうと努力したものの、腹の奥にある燻りは消えない。ベッドを抜け出して、寝室と一続きになっている浴室へ向かう。広すぎる部屋を歩くのにも慣れたもので、音も立てずに反対側の扉にたどり着けた。体を温めて彼のくれる熱を思いながら、自らを慰める。
何をしているのか今の俺に考える余裕はなかった。まぶしい明かりの下で平たい快感を追う。さっさと済ませてしまえば、あいつの横で眠れる。それだけで頭がいっぱいだった。
恋人からの身に余るほどの優しさは常にあって、真心を疑ってなどいない。それでも胸の中で繰り返す。愛している。同じように──愛されている?
近ごろのストロールはどこか危うげだ。うなじを噛むようになってから、ベッドの中で顔を見せてくれなくなった。代わりに何度も名前を呼んでくる。遠くにいるものに呼びかけるように、祈るように。国のためにしまい込んだ王になる前の名を、あのとき知らなかった甘い声で囁く。
「噛んで」
「オメガになりたいの?」
「違う。約束が、欲しい」
涙の滲む声で乞われて、ぐっと噛み付いた。ストロールの望む痕がつくように、深く、長く。歯列を離して凹んだ皮膚を舐めると、か細く鳴いて身体ががくんと落ちた。強く締め付けられて、そのまま奥に出す。
「好きだよ」
意識を手放したストロールからの返事はない。深くため息をついて、体液にまみれた体を布で拭ってやる。
眠り姫に口づけても目覚めることはなかった。運命であれば、頬を薔薇色に染めて起き上がってくれたのかもしれない。王宮の中で読んだ幸せな物語は、そういうふうにできている。
寝室は冷え切って、ただ静かだった。大好きなひと。苦しそうなのはわかっているけれど。
「君にこれ以上、何をあげたらいい?」
「久々に散歩でもどうかな、気晴らしに。ケーキの美味しい喫茶があるって聞いたんだ」
「ああ」
「それに、陽の光に当たると元気になるって本に書いてあった」
剣には乗らず、自分の足で彼の隣を歩く。こうやって並ぶのは、ずいぶん久しぶりな気がした。街には爽やかな新緑の風が吹いて心地よい。
「……でさ、そのとき」
生返事すら返してこない恋人はいつの間に立ち止まったのか、二歩ほど後ろにいた。様子を伺うと、視線の先には首輪を付けた可愛らしい娘がいた。番らしき人と手を取り合い、朗らかに笑って歩いている。ストロールはひたむきに、不躾なほどに、彼らをじっと見つめていた。
「ストロール。手、繋ごうか」
「馬鹿言え。外だぞ」
剣を振るような勢いですげなく断られて、やり場のない手をぶらぶらと振りながら歩く。
「今、何か欲しいものはある?」
「いや、隣に居てくれるだけで十分だ」
静かな喫茶は古風な調度品で揃えられており、照明は仄暗くしてある。出された繊細な菓子の味は、よくわからなかった。どんな話をしたのかも頭の中には残っていない。
窓の外にたっぷりと日の注ぐ広場が見える。人びとは皆笑っているようだ。ストロールがときどきそちらを見るのに合わせて、二人して遠くを眺めていた。暗い店の中は、どことなく煙たかった。
王宮に戻ったのは、まだ太陽を夕陽と呼ぶには早い時間だった。二人で連れ立ってくぐった寝室の扉を閉めれば、するりと指を絡めてきた。
「体が目当て?」
「好きだから」
あけすけな態度を鼻で笑えば、ストロールがまっすぐに答える。自分だってそうだ。好きだから、今日みたいに散歩に誘ったんだ。視線を向けたが、喫茶にいた時と変わらず目は合わない。
なかば義務のような口づけをして、シャツの襟を開くと布が引っかかるような感じがした。あらわになった首の後ろを覗けば、そこには深い傷があった。強く掻きむしったのか、噛み跡のかたちがぐちゃぐちゃに崩れている。
「手当しないと」
「嫌だ……!」
用具を取りに立とうとしたところで、ストロールにどさりと押し倒される。腕を掴む力は強く、身動きが取れない。
「手を離せ、ストロール」
よく聞こえるように、ゆっくりと声をかけた。一瞬ゆるんだ拘束をすり抜けて両手で首を掴み、うなじの傷に爪を立てて問う。指先には熱く濡れた感触があった。
「痛い?」
「ああ、痛いよ。ずっと」
上にあった体を退かして棚へ向かい、手当の用具を取り出す。傷を覆い隠すようにまっさらな包帯を巻いていく。うなだれたストロールは、昼間と同じように沈黙を守っていた。
「お前を好きでいるのは……」
瓶が詰まった木箱に銀の鋏を投げ込むと、耳障りな音が部屋に響いた。細く、長く、腹の底からため息をつく。聞こえたところで構わない。
「今日はもう帰って。休んだほうがいい」
喫茶に行ったあの日から、ひと月ほどは抱かなかった。何度か部屋に招いたけれど、求められなかったからだ。他愛のない話をしても返事はどこかぎこちなく、ちらと見たストロールの手はいつも強く握り込まれていた。
「包帯、取ったんだね。傷は治った?」
ソファで隣に掛ける彼の肩がびくりと跳ねる。
「あげる」
端のほうに隠しておいた布張りの箱を渡す。ストロールは受け取ったものの、呆けたような顔をしてしばらく抱えていた。
「首輪だよ。これ以上噛まなくていいように」
箱を開けて見せてやる。
「……好きな色だ」
「着けてあげようか」
返事をするより先に猫が甘えるような格好で体を寄せて、頭をこちらに預けてきた。差し出された傷だらけの首に輪を巻きつけてやる。革が肌に吸い付くようにおさまって、髪の色と揃えた銀色の錠がかちりと冷たい音を立てた。
「いい子。苦しくない?」
頷くストロールの頬はうっすら赤みが差していた。首輪に指を擦り付けて感触を確かめている。
「俺はちゃんと、お前のになれた?」
「初めて会った日からずっとそうだよ」
ぱたりと降ってきた雫に顔を上げる。ストロールから溢れる涙の粒が、ほろほろと落ちていく。眉尻は情けなく下がり、口の端は縋るような媚びを孕んで引きつっていた。
いつからそんな顔をするようになった? 輪と首の隙間に指を差し入れて引き寄せた。燃えてとろけた薄灰色の瞳の中に、歪んだ自分の姿が映る。震えた声で、もう誰も呼ばない古い名前を呼ばれる。それでも。
「好きだよ」
濡れた舌が絡みあって糸を引く。腰に手を回すと、応えるように衣擦れの音がした。触れ合った胸の鼓動が響く。愛している。心から──愛し合っている。
嘘の首輪は、まだ新しい革の匂いがした。
